① 大阪城

   
地元吉田城に次いで、多く訪れたのが大阪城である。
   長兄、次兄と大阪市住まいだったからです、若いうちからよく連れて行ってもらいました、私が
   定年退職後は年に2~3回大阪に行くようになりました。
   12年前長兄が亡くなり、次兄も同居していた従姉妹が7年前に倒れ、小浜に引き取られてからは、
   独り住まいに成ってしまい、心配で毎月一週間程様子を観に行くようになりました。
   大阪での散歩は次兄宅から2キロの四天王寺か大阪城迄車で行き、城内を一周すると4キロほど
   有って、四季折々に景色の変化も有って丁度良い散歩コースでした。
 
  次兄も令和2年11月に82歳で亡くなり、大阪に行く機会が激減しました。

   
 ※現在の大阪城は、大坂夏の陣にて焼失後、太閤秀吉築城の上に土と石垣を作り
  (地上十数メートル)に徳川幕府が築城、秀吉の面影は全くなく、今の城は江戸時代の天守閣跡に、
  秀吉時代の大天守閣を模して、昭和6年鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。

  
    ※毎年11月初旬、城内にて菊花まつりが有って、菊人形、菊の展覧会、各企業が競争して
      モニメントを造り公開しています(天守閣だけ入場料徴収)
      実はこの時(2010年11月4日)秀吉時代の痕跡を発掘調査していて、大きなテント内で
     公開しておりました。

☆大阪城の歴史
  豊臣秀吉が、高田本願寺の旧地に天正11年(1582年)9月1日に着工して、秀吉生存中四次に渡り
  大工事を重ね秀吉の死の翌年、完成を見たというのが通説に成っている。
  上町台地と呼ばれる、大阪市内を南北に走る台地の北のはずれに、頑丈な高石垣と大きな堀を掘り
  強固な防御力を確保した。
  しかし、冬の陣のあと堀を埋められ、夏の陣の戦いにて、豊臣家は滅亡、大阪城はもとより、城下町
  もすべてあとかたもなく焼亡してしまった。
  その後松平忠明が大阪藩主に任命され、四年間在任中落胆たる戦災後片付けをして復興の基礎固め
  をした。その後、幕府直轄地(天領)とされ、二代将軍秀忠の時代に、西日本六十余名大名に号令して、
  徳川将軍の為の大阪城が、元の城跡を全面的に改造して全く新規に、全ての石垣が基礎から築き
  直された。
  しかし、城は完全に新しくなり、石垣も堀もすべてのの建物も豊臣氏と無関係なものとなった。
  城下町そのものも全て生まれ変わったのである。
  しかし、夏の陣から380年も経った今日もなお厳然として、豊臣氏の大阪城が再建されたので大阪の
  人々の脳裏には、豊臣氏の大阪城が生き続けているのである(平成の大修理にて綺麗になりました)


竹田城(兵庫県朝来市)
  
  近年観光ブームにて、353目―トールの山城(雲海の城)として有名になりました。
  1443年但馬守護 山名宗全が配下太田垣氏に築かせた。
  竹田城の太田垣氏は、羽柴秀吉の但馬攻めにて落城、没落してしまった。



 悲しい歴史と共に、雲海に浮かび上がる山城の様子は素晴らしいそうです。
 私も亡き次兄の妻の在所が朝来の近くで、妹さんが独りで住んで居て、竹田城に近い生野銀山の跡近く
 なので、私も20回ほど尋ねましたが、雲海の絶好の日はおと連れませんでした。
 晩年は駐車の車があふれ田圃道のうちから満車、とても近づくことが出来ませんでした。
 城好きの写真愛好家は徹夜は勿論、向の山中にテントを張って数日もシャツターチャンスを待っていた人が
 いたそうです。
 大阪をAm5:00前に出発して、100歳の従姉妹が住む小浜に立ち寄り、舞鶴自動車道、北丹後、播但連絡道
 を使って、Am11:00過ぎに到着、独り住まいの妹さんが料理を支度して待っていてくれました。
 私達が行く頃は雲海などなく、雨の日に雲がかかっているだけでした。
 生野銀山の入り口の小高い裏山に、山名宗全が一時身を寄せていたと言う、小さな山城が有りました。
 今は石垣ももなくうっそうと木々が茂っているだけです。
 次兄が4年前に82歳で亡くなってからは5月、11月、豊橋から私一人で走行、小浜、生野銀山、大阪に出て
 2泊して帰宅してましたが、2年半前妹さんも75歳くらいで亡くなりました。
 一番長生きしたのが小浜の従姉妹で102歳、一昨年末に逝去してしまったので行く用事が無くなりました。

 
 
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私が訪れた城